'TORAY'Innovation by Chemistry

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DCAは東レが文化支援の一環として主催するコンピュータ・ピクチャーの公募展です。

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DCAインタビュー

第1回 河口洋一郎さん
「種子島」という原点に立ち戻って
その暗黒時代の中からどのようにしてGROWTH MODELが生まれてくるのですか。
研究所のデザイン課長の出原栄一さんが「種子島という変わったところから来ているんだから、種子島っぽい個性のあるものを表現したらどうか」と言ってくれたんですよ。それで考えて、アンモナイトの螺旋構造に行き着いたんです。貝は子供の頃から種子島の磯海岸で日常的に採ってその構造をよく観察していたことがあったので、形としての渦のからくりには興味があったし、また満天の星夜に輝く天の川銀河も実は渦巻いているから、それらの形の論理的な規則性の謎を再び原点に帰って考えてみることにしました。この等比級数的な螺旋形のアンモナイトが、GROWTH MODELの原点です。
ただ単にコンピュータが面白いからCGで幾何形体を作るということではなくて、自分の生き様として、思考しながら造形することを見つけられたのが良かったんだよね。種子島という原点に戻らなければ、今の僕はなかったかもしれないね。

▲GROWTH MODELの原点となるアンモナイト
アンモナイトに行き着くことができたのは、僕個人的には非常に良かったんだけど、通産省の研究所の研究テーマとしてはダメだったんだよね。研究所でやっているのはいわゆる工業デザインであって、あくまでも使う道具・製品のためのデザインなわけ。幾何形体の自己増殖的なアニメーションなんて社会的な効用とは無関係なんだよね。アンモナイトの美しい螺旋の造形がなぜ必要なのか、という(笑)。だから、GROWTH MODELの研究はあまり人に見られないようにやっていましたよ。みんなが帰ってからコソコソと罪悪感を感じながらね(笑)。
それでも続けられたその気力はすごいですね。
不安でたまらなかったですよ。精神的には本当に忍耐の時期。大学院の時の同級生は助手や講師としてどんどん他大学等に出ていくのに、こっちは人目につかないようにコソコソと変なことをしているわけですよ(笑)。未来が見えないし、本当に不安だった。
そんな中でどのタイミングでGROWTH MODELが表舞台に出てきたのですか。
1978年に研究所も大学院もいっせいにつくばに移転したんですよ。研究所でお世話になっていた出原先生もそれがきっかけで北海道に行くことになって、その時に一緒に来ないか、と言われたんだけど、種子島で育った僕が住むには北海道はあまりにも極寒の北限を超えている、と思って辞退したんだよね(笑)。
でも辞退したら辞退したで、行くところがなくて困っちゃって。そしたら、CGをやりたいと言っている都内の専門学校があるから講師をやらないか、という話がたまたまあってね。全然行く意思はなかったんだけど、しょうがないから週1回嘱託で授業をやっていたの。そしたらこれまた偶然にその専門学校にSIGGRAPH*の情報が入ってきて、視察に行くことになったんです。当時のSIGGRAPHなんて、日本からの参加者なんてほとんどいない時代ですよ。これが僕の大転機。
SIGGRAPHに行ったら、CGが線描じゃなくて面処理されていて、色と陰影が付いていたんです。もうカルチャーショックでね。それを見た瞬間に頭の中で大激変が起こったの。「悩んでいる暇はない」と思ってね。それで学校で面処理ができる小さなマシンを買ってもらったんですよ。そこからはもう狭い研究スペースに泊り込みでひたすらGROWTH MODELに色をつけていました。 だから結果的にたまたま行った専門学校が良かったんですよ(笑)。他の誰よりも早くSIGGRAPHに行く機会ができて、海の向こうでは10年以上も先のことをやっていることが分かってね。
1981年にSIGGRAPHに投稿論文を出したらなんと通ってしまった! 翌年1982年のボストン大会で発表して海外で大きく評価されたんです。その年から以降、海外からの招待講演が絶えなくて、それが今まで続いているという感じです。 長い暗黒時代の末に、突然国際デビューだったから、その激変はすごかったなぁ。
いろんな偶然と転機が重なったのと、流行からグーッと離れてやったことが良かったのかもしれないね。「そんなの何の役に立つんだ」と罵倒されながらも(笑)。本当に波乱万丈な人生ですよ。
そのGROWTH MODELという名のとおり、
先生の作品では「成長」というのが大きなテーマになっていますが。
それも種子島という自然環境ですね。種子島というのは、フィリピン、台湾、沖縄とつながっている亜熱帯の黒潮の海流の中に位置しているから、僕の中では、海の生物は南からどんどん流れてくるイメージがあったのね。それに加えて、種子島は渡り鳥の中継点でもあるから、いろんな渡り鳥が通っていくんですよ。海の生物は流れてくるし、鳥は飛んでくるし。そういう中にいて、「生物は移動してくる」、だから「必然的に進化する」と子供の頃から思っていました。そんな環境にいたから、子供の頃の夢は生態学者になって、アマゾン奥地の未発見な色鮮やかな未知の生物を発見することだったんですよ。
「宇宙に憧れを抱く生態学者」ですね(笑)。
熱帯のジャングル探検と広大な宇宙への探検と、そこにいるかもしれない生命体。それが僕の頭の中ではだぶっているんだよね。そういう頭の中のイメージを具体的に表現するためにCGを選んだんですね。遥か彼方の宇宙にいるかもしれない惑星生命体を探す夢です。
そういう探検の夢から先生の色鮮やかな作品たちは出てきているんですね。
そう。それに色彩という意味では、実際の種子島の生き物達がものすごく影響していますね。物をじっくり観察するくせができたような気がします。種子島の海には珊瑚礁がたくさんあって、その中にカラフルな魚などがいっぱいいて、野山には真っ赤なハイビスカスがたくさん咲いていて、鮮やかなツマベニ蝶が飛んでいるし、山添の川の籔にはアカヒゲといった赤い小鳥やさらに昆虫もきれいなのがたくさんいたしね。
小さい頃から海に潜ったり、野山をかけめぐったり…。
そうそう。いわゆる楽園としての幼少の記憶が残っています。種子島の自然そのものが宝庫でした。幼少のころの磯海岸でのウツボとの格闘は、相手が力強い分、必死だったのを今でもよく思い出します。また奥深い山に入り、野鳥の営巣や巣立ちを観察しながら、シーンとした静寂の中で、虫の音に耳をそばだてた緊張感の醍醐味。そんな僕がCGと出会ってしまったために、非常に原始的なものと最先端のものがくっついちゃったんだよね。芸術イコール探検・サバイバルみたいな野性的な思考の中に突き進んで行って。
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